昭王と若敖さんのほっとする話

今回は楚の昭王と若敖氏についてのかるーいお話。

若敖氏というのは、楚の14代目(数え方によって差異あり)の君主である若敖(在位前790-前764)から派生した一族のこと。中でも闘氏・成氏・屈氏などが有力で、多くの令尹(宰相)や将軍を輩出しました。その主流は前605年、22代荘王の時に讒言に遭い、反乱を起こして敗れ、滅亡しましたが、子文という優れた令尹の子孫が鄖の地に封ぜられ、何代か続きました。楚では26代霊王の死後、ちょっとしたお家騒動があり、結局平王が即位するのですが、その平王擁立に貢献したのが、子文の子孫である子然(闘成然)でした。子然はこのために令尹に任ぜられますが、功を誇って傲慢な振る舞いが多く、諸人の忌避を買い、最後は自らが立てた平王によって殺されてしまいます。が、平王は子文の功績と名声を考慮し、子然の子である辛・懐の兄弟たちはそのまま所領の鄖に留まることを許しました。

ここまでが前置き。長い。でも背景書かないと伝わらないからね。

平王の死後、子の昭王が即位。昭王は新興国・呉との戦いに敗れ、国都を捨てて鄖に逃亡して来ます。鄖公辛(闘辛)は昭王を保護しますが、辛の弟懐は「平王は父の仇ではありませんか。今、その子が我々の許にいるのです。殺して仇を討ちましょう」と言い、辛がいかに主君を討つことの非を説いても首肯しません。辛は弟が勝手に昭王を殺してしまうことを恐れ、昭王とともに東隣の小国・随に出奔します。その後、なんとか楚への帰国を果たした昭王は、辛の功績を称えて大きな褒賞を与え、それは弟の懐にまで及びました。昭王の近臣が不審に思い、「兄は賞し、弟は処刑すべきでは」と言うと、昭王は次のように答えました「兄は君に礼があり、弟は父に礼があった。だから賞を同じにしたのだ。それでよいではないか」

昭王は闔閭率いる新興の呉と二度戦って二度敗れ、王自身が死の間際に言い残したように「楚国の軍の名を辱めた」かもしれませんが、しかし、たびたび危地に陥りながらも天寿を全うし、子に王位を無事伝えることができたのは、こうした行いの結実によるものだと思います。ちなみに丘さんこと孔子も昭王を絶賛しています。だって、いい話ですもんね。これ。ワイも昭王くらい度量の大きい人間になりたいですわ。ついでに闘辛のような味方もいればなあ。

この話は
『国語』「楚語 下」
『左伝』「定公四年」
に載っています。『史記』「楚世家」「呉太伯世家」と合わせてどうぞ。