楽しいハンさん一家 本編

はい、おはよう。

ハンさん一家の楽しいお話は今回が本編。では早速。

范武子は晋の宰相を務めて名声を得ましたが、とある事情により職を辞し、家督を子の文子に譲りました。ある日、晋の朝廷に出仕していた文子がおそく退朝してきたのでその理由を尋ねると

文「秦から来客があり、隠語を用いて質問しましたが、大夫(家老)方は誰も答えられる者がおりませんでした。私はそのうちの3つを解いて答えました」

これを聞いた武子は激怒して

武「大夫方は解けなかったのではない。目上の父兄に譲ろうと黙っておられただけだ。お前は童子でありながら朝廷で3度も人を出し抜いた。そんな事で家を保てると思うのか。わしが居なくなったら、お前はよってたかって潰されるだろう」

そして持っていた杖で文子をさんざん打ちつけ、冠を留める笄(ヘアピンのようなもの)を叩き折った。

武子からすれば、利口すぎる息子の将来を危惧した上での折檻だったのでしょう。文子もそこは人並み以上の男。父の真意を理解し、その後は自重するようになります。前589年、晋が東方の斉を破った靡笄の戦いというのがあり、その時晋軍を指揮したのは郤献子という人でした。文子も従軍していたのですが、戦勝軍の凱旋の際、文子は遅れて都に入ります。そこで再び武子が

武「わしがお前の帰還を待ち望んでいたことはわかっているだろうが。なぜ遅くなったのか」

文「今度の戦勝は、郤子の指揮によるものでした。私が先に入城すると、民は私に注目するでしょう。それゆえ、遅く帰還しました」

武「それでよい。わしもお前も、災いを免れるであろう」

このように、文子は人として成長していきますが、それに反比例するように晋の公室は徐々に衰えていきます。晋は覇者文公以来、北方中華の盟主として君臨し、南の楚との対峙を続けますが、晋がその地位を維持できたのは、文公の余徳というべきもので、文子はそうした晋の実情をよく理解していました。前575年、晋は、自国に叛いた鄭を討つべく出兵しますが、これを知った楚も鄭救援のために派兵します。文子は、現在の晋公が覇者の器ではなく、徳も薄いのに諸侯が晋に従うのは不吉であるとし、今回は戦を避け、楚と鄭を外患として残し、国内の結束を優先すべきだと主張します。しかし、これは多くの主戦論者によって斥けられ、結局両軍は鄢陵の地で激突します。この戦いは晋が勝利し、一時的に国威は上がりますが、これに気を良くした時の晋公は己の知を誇って傲慢になり、側近を増やし、租税を重くし、有力な貴族を殺してその家財を奪うなど悪行を重ねたため人心を失い、国人らによって殺され、晋の古都である翼の東門の外に、車一乗とともに葬られます。古代中国では、東門の外に葬るというのは諸侯の扱いではなく、夷狄に対するそれであり、また車一乗というのも、通常七乗とされる諸侯の礼からは逸脱したものでした。ちなみにこの人は諡号を厲といいますが、これは数ある諡号の中でも最悪なものとされており、この国君に対する晋人の思いが伺えます。これらの出来事はすべて、范文子の死後のことでした。そして公以後、晋公室は衰亡の速度を速めることになります。

文子についてはもう一つ、面白いエピソードがあります。鄢陵の戦いの際の話ですが、この時楚軍の士気は高く、晋軍に接近して陣を張ります。それを見た晋の将軍たちが相談していると、文子の子である宣子が突然意見を述べました。

宣「竈を崩し、井戸を埋めて地を平らにすれば、進軍も戦いも容易にできるではありませんか」

これを聞いた文子は激怒して

文「国の存亡は天命である。童子に何がわかるか。聞かれもしないのに発言するのは罪悪である。お前はいずれ人に害されるだろう」

そして近くにあった戈を取って宣子を追い払った。

どこかで聞いた風な話。長い物で息子を追い回したりするのは范氏の伝統か。文子はかつて父が自分に感じたのと同じ恐れを、息子の宣子に抱いたのでしょう。この宣子という人は、能力でも器量でも祖父と父には及びませんでしたが、それでも害されることなく家を保ったところを見ると、彼なりに考え、努力するところがあったものと思われます。

宣子については、こういう話も。彼は和という大夫と領地の境界を巡って争い、長い間決着がつきませんでした。彼が軍事力で相手を抑えようとすると、家臣の訾祏という者が次のように諫めました。少し長いのですが、范氏のツボを的確に押さえているので全文引用します。(引用元は『国語』「晋語 八」)

訾「昔、范氏の祖先の隰叔子は周の危難を避けて晋に亡命し、士蔿が司法官となって朝廷を正せば姦官はなくなり、司空となって国家を正せば失敗した事業はありませんでした。武子の世となって、文公襄公を輔佐して、諸侯を治めると、諸侯に二心がなく、卿となってから、成公景公を輔佐して、麾下の軍に失政がなく、成公の元帥となって、太傅に任じて、刑法を正し、訓典を集めて、国に姦民なく、後世の人が範とするようになりました。この功によって、随と范の地を受けたのです。文子の代になって、晋楚の同盟に成功し、兄弟の諸国に厚くして、仲違いのないようにしたので、郇と櫟の地を受けました。今、あなたが位を継いでから、朝廷には姦悪の行為がなく、国家には邪悪の人民がなくなりました。かくして、天下四方の患がなく、国家内外の憂もなくなりました。ご先祖様お三方の功に頼って、その禄位を享受しておられます。今やまったく平穏無事なのに、和大夫をお怨みなさいます。この上に国家が寵恩をあなたに加えようとするとしましたら、何をなさって報いるのですか」

宣子はこれを聞いて行いを改め、和に係争していた土地を増し与えて和解した。

まあ、これはこれでいい話ではあるのですが、やはり先人と比べると二枚も三枚も下という感は否めません。そして、范氏に対する天の恵みも、このあたりで終焉を迎えることになります。訾祏の死後、宣子は子の献子に次のように言います。

宣「鞅(献子の名)よ、わしには訾祏がいたから、朝夕彼に意見を聞いて晋国を輔佐し、また家を治めたものだ。今、わしがお前を観察するに、お前一人でやるには能力がないし、相談するにもよき相手がいない。将来どうするつもりだ」

献「私は、平素家では恭しく、安心したり疎かにしたりせず、学問を敬い仁者を好み、政には和を尊んでその正道を好み、衆人に図って自分の好みを求めず、心中ひそかに善と思っても正しいと断ぜず、必ず目上の人の意見に従います」

宣「お前の身は災難を免れるであろう」

再び親子間で似たようなやりとり。しかし献子は、父以上に先人に及ばず、彼の代で范氏は急速に力を失い、次代の昭子に至って、ついに滅亡することになります。

献・昭の親子にはもはや楽しいエピソードもなく、かくしてハンさん一家の物語は幕を閉じるのでありました。チャンチャカチャンのホイサ!