三箇頼照=白井備後守説について

頼照の最期と頼照=白井備後守説について

頼照が本能寺の変後秀吉に捕らえられて斬首されたとか、白井備後守と名乗って豊臣秀次に仕え、その滅亡に連座して自殺したという説があり、一部の人名辞典等でそうした記述がなされているものがあるが、これはおそらく誤りと思われる。前述のようにイエズス会側の頼照に関する記録は天正16年(1588)4月19日で途絶えており、もし上のような事実があれば、最後まで同会に好意的だった頼照について、その点を記載しないということは考え難いためである。
秀次家臣の白井備後守については、『水野家譜』『尾州長久手戦記』『天正事録』等でその名が確認できる。腕力家で知られ、長久手の役で水野勝成と戦い、のち主君に連座して子久太郎とともに京都大雲院で自殺しているが、この人物の秀次仕官以前の経歴は定かではない。
キリシタンン史の著名な研究者である松田毅一博士は、『河内キリシタンの研究』の中で、頼照=白井備後守説を唱えたのはルクセンブルク出身の研究者であり聖職者でもあったミシェル・シュタイシェン(Michel Steichen、1857-1929)師がその著『キリシタン大名』で述べたのが始まりとしている。詳細に書くと長くなるため要約するが、永禄6年(1563)に奈良で宣教師ヴィレラによって受洗した貴人の中にシカイ(Xicay)という者がおり、以後イエズス会士の年報等に時々現れる名であるが、シュタイシェン師はこのシカイを白井の転訛であるとし、さらに白井とは三箇の領主三箇殿のことであるに違いないとし、同書が1952年に邦訳された際、訳者の吉田小五郎氏が白井に註して「白井備後守範秀」とし、これが後に頼照=白井備後守説の基になった。しかし、白井備後守の判明している限りの経歴は頼照のそれとは一切重ならず、松田博士はシュタイシェン師のキリシタン史研究における業績を称えながらも、シカイを白井の転訛と解したのは早計で、また白井を三箇殿と同一視した点については典拠がなく、甚だ不正確である、と一刀両断している。
なお、松田博士はシカイ(Xicay)は白井ではなく、頼照と同時代のキリシタン大名結城忠正の号である進斎(Xinsai)のことではないかと推察しておられる。筆者はプロの研究者ではないので断定は差し控えるが、この見解に賛同する。